サンファン日本人移住地/米倉さんご一家

 

19世紀の終わりごろ、経済難と食糧難に喘いでいた日本政府が打ち出した移民政策に乗って新天地を求めた人々が、日本からハワイ、ブラジルなど世界各地に向かって移住しました。今から125年ほど前の出来事です。その子孫はすでに4世から5世となっており、慣習、風習も現地のスタイルを取り入れた人が多くなっています。

 

世界各地への移民の歴史は苦難の連続だったと聞いていますが、その当時のお話を移民1世の方々から直接伺うことは難しくなっているのが現状です。しかし、ボリビア・サンファン居住区への移住は第二次世界大戦後1955年から。今年でちょうど60周年となります。そのため今回は1世の方々から移住当時の貴重なお話を伺うことができました。

 

1955年(昭和30年)といえば、日本では電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビが『三種の神器』と呼ばれ、ロカビリーが流行し、トヨタ自動車が『クラウン』を発売した年。多くの日本人が新しい時代の到来に夢を抱き始めたこの時期に、日本から遠く海を渡った人々は多くの苦難に出会いながらも必死で生きぬいていました。第一次移住から八年後となる1963年8月24日、わずか7歳と5歳でご両親とともにボリビアへ渡った米倉艶子さん、洋子さんのお話をお伺いしました。

 

 

『艶子さんのお話』
 

南米に行くと聞いた時、「どんなとこなの、お母さん?」と訊ねても、ただ「ブラジルの中にあるボリビアという町に行くんだよ」と言うだけ。当時、佐世保に住んでいた私たちはほとんど現地の情報もないまま出発の日を迎えました。駅までお見送りに来てくれた親戚のおじいちゃん、おばあちゃんたちが泣きながら手を振ってお別れしてくれた、その光景は今でもはっきりと目に焼きついています。

 

佐世保から汽車で神戸へ、そして同じ船に乗る4家族の方たちとともに横浜に行き、第16次移民として大きな船・サントスでボリビアへ向かいました。60日間の航海中、船の中ではいろんなイベントがあり、船長さんにもとても良くして頂いて寂しさを忘れることができましたが、ブラジル・サントス港に着いた時はやはり悲しい気持ちになりました。

 

サントスからサンタクルスまでは1週間の汽車の旅。父たちは途中で汽車を降りて薪を運ぶなどの仕事をし、母たちはその間に飯盒でご飯を炊いておにぎりを作ってくれました。「私たちはどこにいくんだろう?」という不安な思いと、車中の食事で車酔いをするのが一番辛かったです。

 

 

サンタクルスに到着し、汽車から降りるとサボテンがあってメキシコの映画みたいでした。「わぁ、外国だぁ」って思いましたね。日本人居住区・サンファンまではそこから車で三時間ほど。トラックの上でご飯を食べようと、おかずに『サルディーニャ』という缶詰を開けて食べました。この缶詰は今でもありますよ。ケチャップ煮みたいなもので、たくさん買ってよく食べていたものです。当時はあれで助かりましたね。

 

以前の入植者の方々は川を船で渡ってサンファンへ入ったそうですが、私たちが来た時には橋が架けられていました。先に女性たちが居住区に入り、少し遅れて父と他の家族の家長たちが大きなトラックに荷物を載せて入植しました。

 

最初に住んだのは今の居住地から20kmほど先の、長屋のような家です。椰子の葉を載せた家で、集落にはそんな感じの家ばかりでした。家づくりは班のみんなが集まっての共同作業で、棟上の行事もありました。板で隣との間仕切りをして、ベッドを置き、蚊帳をつって生活していました。布団は日本から持っていったもので、古くなると父母が綿を入れ替えてくれましたね。

 

大変だったのは、すごく蚊が多かったことです。動くと真っ黒い蚊の大群が襲ってきて、妹が泣くんです。

「母ちゃん、早く連れて帰ってよぉ。こんな蚊の多いとこはいや~」

 

母はすごく困った顔をして妹を見ていました。その母の顔がとてもかわいそうだったので、ワーワー泣いている妹の口をふさいで家の裏に連れて行ったりしました。「泣かないで~」って言いながら。『ホタルの墓』って映画があるでしょう?そんな感じでしたね。

 

蚊に刺されないようにするために、プロポリーというものをガムの代わりに噛んでいたこともありました。妹に「噛みな、噛みな、こうやって噛むんだよ」って。それに蜂蜜付けておいしいねって。蜂蜜はいっぱいとれたんです。お父さんが山を切り開く時にバケツいっぱいとれたので、保存していつでも食べられるようにしました。そういった意味では食べ物にあまり苦労はしませんでした。

 

 

山にはたくさんの果物があり、一歩入るとすぐそこにおいしい果物がなっているんです。友達と5、6人で山に入り、半日くらいそのまま夕暮れまでいたこともあります。

今でもその果物『アチャチャイル』はサンタクルスの街中で売っていますよ。枇杷のように皮が堅い果物です。

 

11月から3月までは雨季が続きますが、それが終わって雨が退いた後には大きなナマズが川に残るんです。洗面器に入れてきて、ワーワー言いながら料理してもらいました。ピリ辛の味付けで、身がプリッとして美味しいんですよ。大きいものほど生臭くなくて美味しかった。時にはナマズでかまぼこも作りました。先に入植した方がいろいろ持ち込んでいたので、道具はなんでもありました。

 

お米は日本米のような上質なものはなかったんですが、もち米と普通のお米を混ぜて使いました。先の移住者の人たちが、私たちが入植するまでの8年間でもち米、大豆、小豆などいろいろなものを作ってくれていたんです。醤油もあったし、お豆腐も自転車で回って売りに来てました。お餅は大好きで週に1度くらいは餅つきをして食べてました。

 

 水は井戸を近くに掘ったんです。7メートルくらい掘った井戸から滑車で汲み上げました。私たちの土地は粘土と砂地だったので、きれいな美味しい水が出たんです。塩分の多い水しか出ない場所もありましたから、水には恵まれていました。

生活が安定したのはやはり電気が来てからですね。33年前に電気が来るまではガスや灯油を使っていました。最初は冷蔵庫もなく、後からガス冷蔵庫を使うようになりました。

 

電気が来た時点で生活はかなり変わりましたよ。特に女性は思い薪を取りに行かなくてもよくなって助かりました。私(洋子さん)の背が高くならなかったのは、育ち盛りの時期に重たい薪を担いでいたからですよ(笑)。

 

 

サンファンには7つの区があり、私たちのヤマト区は戸数が66軒でした。青年団の人たちはとても活動的で、みんなで団結していろんな日本の行事を開催してくれました。盆踊りを始めたのも、私たちの区が一番最初です。浴衣もちゃんと着たんですよ。日本から反物を持ってきた人に浴衣を縫ってもらい、手作りの提灯もありました。地区の運動会も開催しましたね。

 

医療に関しては、年に1~2回、日本の医療団の人がやってきました。母は小さい頃から中耳炎を患っていて、それがこちらに来て悪化して亡くなったんです。亡くなる年の4月に診察してもらったとき、医療団の人に「長く生きてもあと5ヶ月ですよ」と言われました。母は42歳で亡くなりました。

 

こちらに来て5年目、私が12歳の時です。父はつらかったと思いますよ。父も昔は佐世保で炭鉱の仕事をしていたため喘息持ちで、それを心配した母がこちらに連れ出したんです。それでも父は78歳まで長生きしてくれました。

 

父は母の代わりをなんでもしてくれました。料理も、みそや豆腐まで作ってくれて。苦しい生活でしたが、父母を恨んだりした事は無かったですね。父が愛情深くて、とても私たちを大事にしてくれたので、そんな気持ちにはなりませんでした。貧しくても父が私たちに教育をつけてやりたいと思ってくれていたことに感謝しています。だから私たちはできる限り自分で勉強しました。

 

小学校四年生でこちらに来たうちの兄はいつも言っていました。

「艶子、学校に行けないけど勉強しようね」って。

ろくに学校にも行けなかった兄は20年前に日本に帰って再教育を受けて、今では日本で人材派遣の会社の社長さんをやっています。

きっと神様が私たちに修行をさせてくれたんですね。結婚して子供もできて今はとても幸せです。

 

 

お母さんはよくこう言っていました。「辛い人はいるよ~、もっともっと辛い人はいるよ~」って。

亡くなる前にも言ったことがあります。

 

「艶子~、これから人生つらいこともたくさんあるかもしれないけど、自分が苦しい時は自分よりもっともっと大変な人がいる、苦しい人がいるんだよって思いなさい」。

 

その言葉に私は支えられました。母と父のおかげで今の私たちがあるんです。

ここには住民同士の助け合いがあります。周囲の誰もがそうしてくれました。

私は何があってもサンファンで骨を埋めたいと思っています。

 

 

 

撮影・インタビュー/宮城谷好是

編集/伊藤亜季

宮城谷 好是 Yoshiyuki Miyagitani

Official web site TAMATEBAKO   http://www.tamatebako38.com/