2007 「グランドサークル」の旅
【グランドサークルへ】
僕は「旅」が大好きだ。一人でシミジミと行く旅も、仲間とガヤガヤ行く旅もそれぞれの魅力があって楽しい。でも旅は楽しい半面、色々な出来事が次から次へとやってきて、山あり谷ありの時間を過ごすことになる。まるで人生の縮図を見ているようだが、旅から得た経験は実に僕の人生を豊かにしてくれた。かなりしんどい旅をした後はもうしばらくは行きたくないと思っても、何かのきっかけでまた無性に旅に出たくなるのも旅の魅力のせいなのだろう。
若いときは何の目的もなく闇雲に旅に出ることも多かったが、このごろの「旅」は何かのきっかけで出かけることが多くなってきた。今回の旅も元を辿れば、昨年アリゾナ・ユタ州に行ったことがきっかけだった。僕にとってのアメリカのイメージはニューヨークなど東海岸の都市であり、西海岸の都市は単なる通過点でしかなかった。それが、いきなりアリゾナ・ユタなんである。しかし、出会いというものはありがたい。僕がずっと撮影させていただいている和太鼓集団「志多ら」がアメリカの西海岸方面を中心に公演を行ったのだ。僕は彼らを撮影するため同行した。
今まで、アメリカ本土には5回ほど訪れたが、現地での交通手段はいつも飛行機だった。飛行機を使うのは当たり前でアメリカは日本の国土の22倍。飛行機はアメリカ人にとって最もポヒュラーな交通手段なのだ。しかし、昨年は僕にとって大きなターニングポイントを迎えることになった。アリゾナ州ツーソンからユタ州モアブまで志多らのメンバーと一緒にアメリカの大地を車で移動することが出来たのだ。
アメリカの大地を走るのは20歳の頃からずっと思い描いていたことだった。できればいつかアメリカを横断したいと思っていた。若いとき、テレビで流れていた数々のアメリカ番組。アメリカに対する思いは年々大きくなっていった。特にロード物と呼ばれるアメリカ国内を旅するジャンルのものは僕の憧れとなっていった。「ルート66」しかり、ジャックケルアックの「路上にて On the road」しかり、ピーターフォンダの「イージーライダー」しかりである。
そして去年、公演の移動の途中で立ち寄った「グランドキャニオン」、「アーチーズ国立公園」などの風景に出会い、その果てしないほどのでかさに圧倒された。
帰国後、いつかはこの国を自分で運転して旅してみようと、地図を広げ国立公園を中心に調べて見ると、ラスベガスの東に大きな人造湖「レイクパウエル」というのがあって、その湖を中心に半径200キロ程度の円を描くと、その中に国立公園やその他の公園が一杯あることがわかった。その円のことを「グランドサークル」といい、アメリカ国内の観光客はもちろん、ヨーロッパからも多くの観光客を集めている。
今回は合計6日間、現地滞在は4日間のみということでかなり厳しい時間だったが、多くの公園の中から「プライスキャニオン」「アンテロープ・キャニオン」「ホースシューベント」「モニュメントパレイ」「アーチーズ国立公園」を選び、距離を計算し、宿泊地を選んだ。宿泊地は観光シーズンということもあり、全てインターネットから予約していった。ただ。モアブに存在するアーチーズ国立公園は昨年知り合った、学校の校長先生、マーガレット・ホプキンスさん、通称ホップさんの家に泊めてもらうように予め連絡をしていた。
今回僕がアメリカに行くというと2名の仲間が参加したいと言ってくれた。レンズメーカー中部の所長、S.Mさんと税理士のM.Mさんだ。二人とも僕と今まで海外に行っている仲間だ。春先からこの計画を始め、6月に入って本格的に計画を練りこんでいった。まだ見ぬ場所を思い巡らしての計画はとてもわくわくした楽しい時間だった。
ただ1つ不安があった。英会話である。
今までも一人旅は何度も経験しているが、今回は非常に時間がタイトで限られた時間の中で確実に行動しなくてはならない。でも、その不安は払拭された。偶然にも英会話をアメリカ人から習う幸運に恵まれた。またしても良い出会いを神様が作ってくれたのである。名古屋の写真教室の生徒さんが、とてもよい先生を紹介してくれたのだ。名前はリンダさん。豊橋の大学に教えに来るからということで、夜僕の仕事場で毎週火曜日に個人レッスンしてくれるようになった。リンダさんはとてもクレバーな方で僕でもわかるように話をしてくれる。
彼女は日本語を殆ど話さないので、僕は必然的に英語で話すしかない。最初は戸惑ったけど、回を重ねる毎に少しずつ自信が生まれてきた。
外人と話をするということの怖さの呪縛からかなり開放され、こういう言い方で相手に通じるんだという実感が生まれてきた。同時にいろいろなCDでヒヤリングを強化していった。はたして、今回の旅でどの程度通じるのか不安もあったが、現実的にリンダさんに話しているのだと思うと気分的にとても気楽になって出発することができた。「向こうで困ったことがあったら連絡してね」という彼女の好意も嬉しかった。
【シスコの空港にて】
中部セントレア空港を出発したのが、7/9の午後3時50分。
約9時間のフライトで我々3人はサンフランシスコ空港に降りた。目的地ラスベガスに行くためには、一度シスコで降り、税関を通って国内線に乗り換える。トランジット(乗り換え時間)は1時間ほどあったので、余裕があるかと思ったが、シスコの空港はアメリカ本土に入国する人々でごった返していた。
テロ以来、本当に検査が厳しくなっている。入国の目的や滞在時間、滞在ホテル、帰りの航空券の有無など矢継ぎ早に質問される。団体旅行は簡単に通過できるようだが、男3人の旅は何かと疑わしいのか、質問がしつこい。最後にアメリカに来たのはいつかまで聞かれる。機内で1時間ほどしか睡眠ができなかった体には拷問のような時間だ。
シスコの空港でセントレアから預けた荷物を受け取り、国内線に乗り換える。シスコの空港はアメリカでも屈指の大きさでユナイデッド航空は国際線から国内線までの距離がかなりある。国内線の登場口についたのは、出発予定時間の8分前だった。
ラスベガスまでのフライト時間は1時間半。ウトウトするも熟睡できず。
機内から出るとむっとするような暑さには閉口した。
【グランドサークルの出発点ラスベガス到着】
ラスベガスはさすがに賭博の街だ。空港内にはスロットマシーンがずらーっと並び、いかにもギャンブルの街にやってきたという光景に気持ちが高揚してくる。
1Fのバッゲージクレイムで荷物を受け取り、日本で予約していたレンタカーを借りるためにレンタカーオフィスを探すが、オフィスがどこにあるかわからない。
インフォメーションでオフィスの場所を尋ねると、シャトルバスに乗っていく必要があるとのこと。ラスベガスはレンタカーに対する受入体制が他と全く違うほどスケールがでかい。インフォメーション嬢の言うとおり表に出て、シャトルバスを探す。凄く大きなバスにシャトルバスの文字があり、それが次々に止まっては人を乗せてレンタカーオフィスに向かう。こんなに多くの人がレンタカーを借りるのかとびっくり。ここは砂漠のど真ん中。どこに行くにしても観光ツアーに参加するか、自由に旅を楽しむにはやはりレンタカーということになるだろう。
レンタカーオフィスには、色々なレンタカー会社のオフィスが並んでいたので、僕は予約していたダラーレンタカーのオフィスに向かう。円形のカウンター内には5名ほどの社員がいたが、それ以上にお客さんがいて、なかなか自分の番にならない。
それでも30分ほどで僕の番になった。レンタカーは今回航空チケットを購入した旅行代理店フリーバードに紹介してもらって、日本のダラーレンタカーオフィスで予約した。インターネットのページからプリントしたバウチャーを係りの男に見せると、手続きを始めたが、何か手間取っている。
我々はこれから370キロ離れたブライスキャニオンに向かう。できれば夕景の写真が撮りたいと思っていたが、時間ばかりが過ぎていく。「何かトラブルでも?」と聞くと、今女性の係りを呼んだのでしばらく待ってほしいとのこと。時間がどんどん過ぎていき、やっと女性の係りが来た。女性はパソコンに向かい、何か入力を始めた。「なにかトラブルでも?」とまたしても聞くと「何も問題ない」という。しばらくして全てOK になり、「GPSは使いますか?」と男が聞く。GPSとはナビゲーションのことだ。「英語だけど大丈夫か?」と聞くので「多分」と答えGPSを受け取る。日本のレンタカーではナビゲーションは車に装着されているが、ここアメリカでは盗難に合う可能性が高いので、取り外しができるタイプを使うのだ。
右のエスカレーターを降りたところが、車の受け渡しだった。行くと女性のスタッフが赤いミニバンを指さした。こいつが今回の相棒か。相棒、よろしくな。しかし、このパーキングでどちらに行けばいいのか皆目わからない。係の女性に、ラスベガスの地図はないかと尋ねると、市内の書店にあるという。いや、そういう意味じゃなくて、あなたのレンタカー会社にサービスとしておいてないかと言うことを聞きたいのに理解してもらえなかった。
久しぶりの左ハンドル。地図のない不安さはあったが、夕陽の撮影に間に合いたいという思いが強く、見切り発車してしまった。ラスベガスはストリップ通りという有名なメインストリートがあるが、それと平行してインターステート15号線が走っている。インターステートというのはアメリカの主要な街をつなぐ高速道路だ。
【レンタカーでブライスキャニオンへ】
すぐにインターステート15号線に出くわしたが、さて右にいくのか、左に行くのかわからない。もし方向を間違うと次の出口までしばらく走る事になるので、一瞬緊張したが、運に任せてとにかく高速道路に入った。S.Mさんが慌ててGPSのスイッチを入れて走っている方向を確認する。南に向かうとロスアンゼルスに向かってしまう。GPS は僕たちの車が無事北の方に向かっていることを教えてくれた。こうしてGPSは早くも僕たちのチームの一員となった。しばらく建物がある街の中を走っていたが、30分も経過すると車の数が極端に少なくなってきた。左右に果てしなく荒野が広がる。アメリカに来ているのだという実感が湧いてきた。
アメリカを車で本格的に走るのは今回が初めてだし、ラスベガスも初めてだった。これから4日間。机上で計画した今回の旅が果たして順調に行くのだろうか。多少の不安はあったが、こうして実際にハンドルを握って広い荒野を走っている事の実感が少しずつ不安を消してくれた。
今最初の目的地「ブライスキャニオン」はラスベガスから約370キロ。
資料を調べると所要時間は車で4時間~6時間と幅があったが、大体その時間内には到着できそうだった。運転を始めて1時間ほど経過すると、無性に眠くなってきた。無理もない。機内では殆ど睡眠できなかったのだ。
僕は普段仕事をしていて眠くなると、肩に湿布剤を張って眠気覚ましをする癖がある。今回もそうしようと思ったが、湿布材は大きなバックの中だ。バックを取り出そうと、路肩に車を止め表に出てびっくりした。車の中はクーラーで冷えていたので分からなかったが、表のこの暑さは何だ。今まで50年以上生きてきて、こんなに暑い、いや熱い空気を吸ったのは初めてだ。温度は軽く40度以上あるだろう。少しの間表にいただけで背中がじりじりと焦げていくようだった。
休憩を取るためと空腹を感じたので、高速を一旦降りて「マクドナルド」に入った。僕は相変わらずフィレ・オ・フィッシュとコーラ。僕は日本では全くコーラは飲まないが、外国では時々コーラを注文する。この季候にはコーラがよく似合う。S.Mさんはオレンジジュースのビックサイズを注文するが、あまりの大きさにびっくり。アメリカ人のジョークとも取れる飲食物のでかさには笑ってしまうしかない。しばらく休息して、またインターステートに乗る。セントジョージという町を過ぎると、インターステート15号線からUS89号線に入る。
入り方を心配していたが、スムースに89号線に入る事ができた。インターステートから分岐して他の道路に入るときは気をつけないと、また何十マイルも先に行ってUターンする羽目になって時間を随分ロスするからとネットで紹介されていたのでここは慎重にならざるを得ない。インターステートの制限速度は75マイル。日本の尺度に直すと120キロだ。東名高速よりも20キロ早い制限速度。実際に走っていると殆どの車は制限速度内で走っているが時々ものすごいスピードで僕らの車を追い越していく車がある。僕らももっとスピードを上げたい衝動にかられるが、交通違反で捕まると面倒なので制限速度をぎりぎりで守る。
インターステートは高速道路なので全く信号はないが、US道路などは町中に近づくと30マイルに速度を落とさないといけないし、信号がある場合もあるので、時間を余分に見ておかなくてはいけない。ちなみに今回走ったインターステートは高速道路でありながら無料である。これがもし、日本の東名高速のような有料だったら、今回は旅行をあきらめたかも知れない。わずかな燃料費だけで走る事が出来るのはありがたい。
89号線を走っていくとザイオンという国立公園に入っていくことになる。
地図上でわかっていたが、ザイオン国立公園は通り過ぎるだけだったのに、公園の入場料20ドルを払う羽目になった。ひょっとしてこの道が間違っているかも知れないと思い、係の女性に「ブライスキャニオンに行くのはこの道でいいですか」と訪ねると「大丈夫よ。あと3時間半ね」といわれた。予定よりも随分遅れている。
89号線を走り続け、しばらく走ると、GPS画面が目的地に近いことを示し始めた。もう8時近いのに、まだ明るかった。しかし、すでに日は落ち、夕景を撮るほどの明るさではなかった。その前にホテルのチェックインも済まさないといけない。
【ブライスキャニオン到着】
ブライスキャニオンの宿泊は公園の入り口に近い「ベストウェスタン・ルビィズイン」。このホテルは収容人数も多く、ガスステーション(アメリカではガソリンスタンドとは言わない)レストランやお土産や、乗馬やトレッキングなど各種のアクティビティが充実している大きなホテルだ。
車を降り、ホテルのフロントを探すが、大きな敷地でどこがフロントかわからずうろうろする。お土産やさんで聞いてやっとわかったほどだ。予約があることをつげ、名前を言うと「クレジットカードをお預かりできますか」という。これは最初にクレジットカードを記録し、チェックアウトの時にホテル内で使用した金額が加えられる仕組みになっている。
キーをもらい、部屋に入るが、レストランがしまってしまうといけないので、みんなでレストランに行く。アラカルトメニュもあったが、僕たちはビュッフェスタイル(日本でいうバイキング方式)にした。食べ放題で一人16ドルはお得だ。
野菜も肉も豊富だったけど、すぐに寝たかったので量は控えめにする。
部屋に戻り各機材の充電や点検をする。今回は旅の全ての情報を動画に収めようと、ソニーの小型ハイビジョンカメラを購入して持ってきたのだが、セントレア空港で撮影しているときに突然液晶画面が真っ暗になり、以後使用不能になってしまった。何てことだと思いながら、もう一度点検するもハイビジョンカメラは旅行中2度と復活することはなかった。(日本に戻ってから修理に出したら、回線がショートしていたそうだ)
11時就寝。
【ブライスキャニオンの撮影】
すぐに寝付いたものの、3時にはもう目が覚めてしまった。これから行くことになるブライスキャニオンは今回初めての訪問地なので、体と頭が興奮気味しているのだろう。4時半に隣の部屋の仲間と連絡をとり、まだ夜も開けやらぬ5時20分に部屋を出る。ここは海抜が高いせいか朝の風が涼しくて気持ちよい。駐車場に誰も観光客は見当たらない。暗いうちにビューポイントに着いたら月明かりで撮影しようと思ったが、果たして公園入り口のゲートが開いているのだろうか。考えても仕方がない、とにかく出発だ。
何かの本に、このブライスキャニオンのビューポイントであるインスピレーション・ポイントで瞑想したらすばらしかったという記事を読んでいたので、そんな神秘的な体験もしてみたいと思った。出発してすぐに公園のゲートがあったが、まだこの時間は無人だったのでそのまま通過。料金を払わなくてもOKだった。少し走ると道路脇にサンライズ・ポイントの看板を発見。続いてサンセットポイントの看板も発見。さぁ、インスピレーション・ポイントは近いぞと思って探しながら行くが、しばらく走っても見当たらない。看板を見落としたかと、途中でバックして慎重に探す。見つけた、これで中に入る事が出来ると思ったら、インストラクションの看板があって、中に入れない。あー、このポイントを楽しみに来たのになぁと思っても、適わないことと諦めて次のポイントに行く。
もう周囲はだいぶ明るくなってしまい、瞑想なんて事は考えられなくなってきたので、サンライズ・ポイントへ向かった。案内の看板のある場所を右折してしばらく走るとパーキングの案内があった。僕たちは駐車場に車を止めて、少しばかり歩くと、インターネットや本で見た風景が眼前に現れた。ここ、サンライズ・ポイントは岩が削られてできたフードー(Foodoo)というものは少ない。
ここで夜明けを見ようという観光客がビューポイントの柵の中に既に10人ほどいた。
三脚を立てるスペースがどうにかあったので、夜明けを待っていた。6時半ころに、少しずつ赤く染まってきた山の端から、ちょこんと太陽が顔を出し始めた。大きなエネルギーを感じる瞬間だ。EOS30Dにタムロン18-200mmをつけたカメラとEOS5Dにキャノン16-35mmを付けたカメラで撮影する。少しだけ撮影して、サンセットポイントへ向かった。ここはフードーが多くて、僕の中にあるブライスキャニオンのイメージに近い。
撮影後、ホテルに戻るために走っているとSMさんが、「あっ!!」と言った。何かと思って聞くと「馬がいた!」という。馬くらいこの周辺には一杯いるだろうと思って、聞かないフリして通過しようとしたら(次のポイントに間に合わせたいので)、まだかなり興奮している。撮りたいといっているので、Uターンして驚いた。
1頭や2頭じゃなく、何十頭もの馬が人に連れられて行進しているのだ。しかも、道路の白い砂を蹴散らすので白煙が上がり、まるで霧の中で撮影しているようで楽しかった。
【アンテロープキャニオンへ】
ホテルに戻り、チェックアウトを済ませ、ガソリンを入れ、朝食(パンとミルク)を購入して7時半に次のポイント、アンテロープ・キャニオンに向けて出発した。
アンテロープ・キャニオンはブライスキャニオンから約250km離れた場所、レイク・パウエル湖に近接した町、ペイジの近くだ。今回の旅で一番行きたかった場所。近くにもう1つのポイント、ホースシューベントがある。
アンテロープ・キャニオンはスロット・キャニオンと呼ばれているように岩の裂け目の中にある。上流から流れる鉄砲水が何万年という時を経て作り上げた芸術がここにある。鉄砲水は岩を削り、流れるような曲線をキャニオン内に残したのだ。
この芸術を鑑賞するには、太陽が岩の裂け目から入ってくる時間に訪れなければならない。つまり、それは午前11時から午後1時ころまでとガイドブックに書いてあった。
ブライスキャニオンを7時に出発したのはこの場所に遅くとも11時までに着く必要かあったのだ。さらに近くにあるホースシューベンドに寄るとなると少なくとも10時頃にはペイジの町に到着する必要があった。
89号線は行きかう車も少なく、道路の整備も良くて快適だった。僕は運転を交代してもらって、寝ようと思ったが、運転のM.Mさんが時々、道路の隅を走ったため、ガタガタと揺れて殆ど眠れなかった。
それでも、車は快調に走り、約3時間半でペイジの町に着いた。11時である。到着目的は10時なのに、11時なってしまったことで普通ならあせるところだけど、僕らは落ち着いていた。ここアリゾナはサマータイムを採用しているので、1時間時計を戻す必要があり、我々は10時に着いたのだ。
アメリカはこのサマータイムを採用している州があるのでややこしい。
しかし、現実に10時なので、まずは最初の目的地ホースシューベンドに向かう。ここを撮影するのは午前10時頃がベストということで、ここを見てから、アンテロープ・キャニオンに向かうというのが、ここを訪れる旅人のルールとして定着しているようだ。
ペイジから89号線をそのまま、進んで5マイルほどの場所というのはわかっていたが、相変わらず、周りは荒野が広がる風景ばかり。「もう5マイルは来たんじゃないの」と言うも確信はない。安心を与えてくれるのがGPSだ。画面を広域にすると、コロラド川が現れてきて、ヘヤピンカープのような地形が確認できた。目指すホースシューベンドだった。
少し走ると、荒野の中、右手に車が数台止まっているのが見えた。
こんな場所で何かなければ、車が止まっているはずもない。僕はあそこがホースシューベンドだと確信した。右折して、道路を入っていくと、インターネットで見た看板があった。
車から降りると、相変わらずの暑さだ。水不足にならないように、ペットボトルに水を追加して持っていく。ちょっとした坂を上るとそこからは下り坂が続く。遠くに目的地らしい場所を発見。熱風の中、歩きにくい砂地は辛かったが、15分も歩けば目的地だ。
しかし、こんな有名な場所にも拘わらず観光客は殆どいない。でも、それはアメリカらしさを感じる瞬間だ。
いよいよ、今まで何度となく写真で見てきたホースシューベンドの風景とご対面。
ワクワクしながら、断崖の上から、恐る恐るコロラド川を見下ろす。アメリカは国立公園をはじめ各公園内に、柵と言うものがまず存在しない。ここもご多分に漏れず、柵はないのだ。岩場の先端まで行く。足が竦む。うっかり落ちたら200メートル下まで何もない。天国に直行なのだ。
しかし、だからこそ興味というか、関心が極端に強くなる。写真を撮るのも一苦労だ。もう一歩前に出て、手前の岩を入れずに写真を撮りたい。撮りたい気持ちは100倍あっても、死にたくない気持ちは1000倍ある。今まで、ここを撮影した写真の多くは手前の岩が写っていた。恐ろしくて岩の先端にいけないのだ。ただ、1枚だけ僕が見た写真では手前の岩が写らず、しかも眼下のコロラド川が全部写っていた。それは有名なプロカメラマンによるものだった。多分、命綱でもつけて撮影したのだろう。もしそうでなかったら、本当に命知らずな阿呆者に違いない。
最初は誰かに足首を捕まえていてもらおうと考えた。
同行のメンバーの顔を見て諦めた。僕の体重を押さえられるだけの体力がないだろうということと、うっかり手を離してしまいそうな予感がしたのである。僕は200メートルの谷底に落ちる光景を慌てて打ち消した。しかし、僕はそんなこともあろうかと実は日本を出発するときに秘策を考えていたのである。
それは、一脚の先に一眼レフカメラを取り付け、セルフタイマーかレリーズでシャッターを切ると言うものである。もちろんこれはファインダーが覗けるわけではないが、ここがデジタルカメラのよいところ。すぐに撮影した結果がわかるので、1枚目の写真の構図が悪ければ、撮り直せばよいのである。これならば、自分が岩場の先端に行かなくても理想的な写真が撮れると思ったのだ。一脚の足を伸ばし、カメラを取り付ける。カメラが落ちたら終わりだから、これでもかとネジを締めた。
恐怖の限界まで、岩場を進み、一脚に取り付けたカメラを差し出す。けっこうな重みがあって、カメラがぐらつく。最初の1枚を撮影する。撮影済みを確認するも、太陽の日差しが強すぎて、液晶画面がはっきり見えない。レベル補正などで確認しながら、何枚も撮影した。最初はタムロンから借りた超広角レンズ、14mmで撮影したが、広角過ぎて、周りが写りすぎてしまったので、キャノンの16-35mmに変えてまた何枚も切った。
ふと見ると、コロラド川を豆粒ほどの大きさに見えるボートが走っている。あのボートは一帯どこを起点に出発したのか不思議だった。こちらは崖の上でヒーヒー言っているのに、200メートル下では、悠々とポート遊びをしているのだ。アメリカって一体・・・・帰り道で日本人夫婦から声をかけられる。とても爽やかな青年だった。驚くことに奥さんは愛知県出身とのことだった。
駐車場に戻ると、観光バスが止まっていた。
時計を見ると10時半。ここからアンテロープ・キャニオンへは15分位と考えていたので、11時前には着きそうだ。それにしても、僕が仕事場の机の上で考えていた計画がこうも見事に時間通り進んでいくことに自分でも驚いた。
89号線を少し戻り、右折して98号線に入る。
ここから5マイルほどでアンテロープ・キャニオンに着くはずだったが、途中で道を間違えた。少し時間をロスしたが、また98号線に戻り、火力発電所を目指す。アンテロープ・キャニオンに行く人の多くが、この火力発電所の煙突を見ながら進むのだ。
しばらく走ると右側に目指す小屋が見えた。
インターネットの情報で、この小屋に着くことが重要だとわかっていたので、小屋を発見したときはこれでいよいよアンテロープ・キャニオンにいけるのだという安心感が広がった。アンテロープ・キャニオンは個人で入る事は出来ない。ここはナバホというインディアンの管轄地だからだ。詳しい歴史は知らないが、現在のアメリカには先住人としてのインディアンを保護している地区があると聞く。
ここアンテロープ・キャニオンもそうした地区なので、インディアンの管理の下で行動する必要がある。でも、そのおかげで、アンテロープ・キャニオンを我々が見られることができるようになったのだから、ナバホ族に感謝しなくてはならない。ここが観光地として脚光を浴びるようになってから、まだ数年しかたっていないというのもそうした理由があったからだ。
小屋は駐車場などの場所とともに柵で囲まれており、その中に入るために一人6ドルの入場料がいる。入口の女性に3人分払う。右手の駐車場に車を止めてといわれたので、既にたくさんの車が駐車されている箇所に我々も車を止めた。小屋には既に20人ほどの人がベンチに座っていた。
アンテロープ・キャニオンに行くにはここから、ナバホの運転するジープに乗って現地に行くようだ。次々にジープが到着しては、乗客を降ろし、また積み込んで出て行く。
小屋の一部にツアーの申し込みの窓があった。ツアー料金は二通りで、通常のツアーが15ドル。これは1時間コースだ。しかし、往復の時間も含むので、現地での滞在時間は30分程度。もう1つフォトツアーと書いてあり、写真を撮る人のために2時間コースとなっている。
我々は当然撮影コースを申し込んだが、料金がいきなり35ドルというのは高い。インターネットでは25ドルと書いてあったけど、人気が出たので料金がアップしたようだ。
撮影ツアーは申し込みが少ないので、しばらく待たされた。
20分ほど待つと、撮影ツアーのジープが用意され、我々は乗り込んだ。我々のほかにアメリカ人と思われる夫婦が1組、メキシカンと思われる家族が6人、そして我々3人の合計10人の乗ったジープは、白いデコボコ道を勢いよく砂煙を上げて進んでいった。
時々、腰が浮かんばかりの悪路になると嬌声が上がり、それが笑顔に変わり、そして乗客同士の連帯感が生まれていった。
15分ほどカダゴト道を走ると先方にジープが数台止まっていた。高さが数十メートルの岩壁が我々の前に広がり、その一角に縦に伸びた切れ目があった。そこがアンテロープ・キャニオンの入口だった。ジープから降りると、ここまで運転していた女性が話し始めた。「私が皆さんのガイドだから、私と一緒に行動して頂戴。皆さんはフォトツアーだから私が写真を撮らせてあげるから。もし他の観光客が邪魔ならどかしてあげるから、必ず一緒に行動してね」と何故か僕のほうを見ながら大柄な体をゆすって笑った。
インターネットの情報ではこの時期は観光客が多いから、写真が撮りにくいと書いてあったが、それはフォトツアーではない人の意見だと思う。このガイドについていけば、安心して写真が撮れそうな気がしたのは、僕だけではなかったはずだ。
彼女は内部を知り尽くしていて、我々を上手にリードしながら内部を進んでいった。
ガイドはかなり努力して我々に写真を撮らせてくれたものの、洞窟内はあまりに狭く、三脚は立てることは許されたが、カメラを構えていると観光客が次々に行き交うため、じっくり写真を撮るというのは無理だった。
しかし、ここまで来たことに感謝していたし、今回はどちらかというとロケハンの意味あいも強かったので、自分に無理だけはしないようにと言い聞かせた。
今までも写真集やインターネットで見た多くの写真がここにあるはずだったが、実際に洞窟内に入って見ると、その場所がどこにあるのかも分からなかった。その資料を車においてきたのは痛かった。
しかし、鉄砲水が作ったと言われる洞窟内の模様は自然が作った最高の芸術であることには変わりはない。僕は出来る限り冷静に洞窟内を見ようとした。しかし、興奮していたせいか、いたずらにシャッターを押していただけかも知れなかった。それほど、あの短い洞窟内ではあったが、被写体としては僕にとってとても魅力的だったのだ。
ガイドの女性は撮影ポイントが分かっているため、参加者が上手く撮れないと分かると、観光客からカメラを借りて撮影してあげていた。さすがに僕にはそうしなかったけれども、ガイドさんが撮影している角度は参考になったほどだ。ガイドは太陽光線が岩の隙間をぬって射し込む場所に来ると、地面の砂を空中にばら撒いた。砂は煙となり、砂煙は一筋の光の束となって空中に浮き上がり、そのまま天井まで伸びていった。幻想的だった。
今まで見た、アンテロープ・キャニオンの写真はとても赤みが強く、壁面は滑らかに見えたが、実物はそんなに赤みが強いわけでもなく、また、岩肌もそんなに滑らかとはいえない。そうなのだ、誰かが書いていたが、ここは写真で見るほうが、よりきれいに、より幻想的に見えるのだ。ガイドは洞窟内を少し進んでは止まり、こまめに写真を撮るように手配してくれた。あっという間に1時間が過ぎた。
残り時間は20分。
さて、最後の20分は少し趣向を変えて撮影しようとレンズを変えてみた。それまでキャノンの16-35mmからタムロンの28-75mmへ。少し望遠になったおかげで、全体像から部分の撮影が可能になった。20分はあっという間だった。
後ろ髪を引かれつつも、今回反省したことは次回必ず実行しようとガイドが待つ屋外へ。日差しは相変わらず強烈に降り注いでいた。
再びガタゴト道を引き返し小屋に戻った。
夢の世界から現実に戻ったようだった。僕たちは親切なガイドさんにお礼を言い、アンテロープ・キャニオンを後にした。絶対また来るからねと心に誓って・・・・。
【モニュメントバレーへ】
13時30分。僕たちは次の目的地であり、本日の宿泊地、モニュメントバレーに向かった出発した。モニュメントバレーは3時間ほどの道のりだ。
US89号を走るとケイエンタの町からはすぐ近くだ。ここはジョンフォード監督のお気に入りのロケ地として有名な場所だ。道路の右側に今まで何度も印刷物で見ている有名な場所が現れる。もっと迫力のある風景だと思ったが、意外に普通の荒野に見えた。
宿泊地Golden Logeに向かう。
少し走ると切り立った岩場の下にホテルがあった。もしここで地震があったら、間違いなくあの岩がホテルを直撃するだろうと思うほど、岩場との距離が近くに見えた。
フロントに行き予約してありますと言うと、名前を聞かれた。
例によって、クレジットカードの提出を求められる。手続きを済ませ部屋のキーをもらう。このホテルはモニュメントバレーのすぐ近くにあり、観光客にとっては最適なホテルで、ここ以外は何十キロも離れた場所なので、満室になることが多い。アメリカのホテルは一人いくらではなく、1部屋いくらなので、1部屋に3人で泊まれば安いものだ。
とはいっても、部屋に入って驚いた。昨日泊まったブライスキャニオンのホテルはとても部屋が広くて快適だったが、このホテルの部屋はかなり狭い。
その上、ダブルベッドが2つなのだ。男3人でベッドが2つ。
同行のS.Mさんはすぐにこの状況を把握したので、いち早く反応した。「僕は寝相が悪いので、2人は無理」という。僕も当然男とダブルベッドはお断りだ。
しかし、なんとか、この状況を打破しないといけない。
そこで2つのベッドのうち、1つを分解して2つにすることを試みた。マットレスが台から外れたので、それを床に敷いた。マットレスを剥がされた本体の板の上に、ベッドカバーを重ねて敷くと、何とか寝られそう。これで一件落着、夕食までには時間があったので夕景を撮りに車で出かけることにした。
天気がいまいちで、構図的にはあまりよくなかったので、僕が日本で見たある写真集の1枚の場所に行ってみたくなった。同じ場所の写真をインターネットで見つけ、その説明を見ると、その場所は僕たちが通ってきた道ではなくて、明日モアブに行く途中の道にあることがわかっていたので、とりあえず、その方面に車を走らせた。
しばらく走るが、その風景はなかなか現れなかった。ちょっとあきらめかけていたところに、S.Mさんが写真と同じ場所を見つけた。車を止めて、後ろを振り向くと、そこには写真とまったく同じ風景が広がっていた。
写真集の写真はモニュメントバレーから、ずっと伸びている1本の道路が、夕陽に照らされて、光っていたが、この日は太陽がずっと右手にあって、道路が光る時期ではないことがわかった。多分冬の季節なんだろう。撮影は断念して、元の道を引き返す。
途中、岩と岩の間に夕陽が沈む場所を見つけたので、しばらくそこで撮影し、夕陽が地平線に消えてしばらくしてからホテルに戻った。
夕食はもう否応なしにホテルのレストランを利用するしかなかった。
モニュメントバレーの近辺には何もないのである。レストランは別棟にあり、中に入って人数を告げるとも席に通された。レストランはそんなに広くはなく、すでに宿泊者の何組かが食事をしていた。昨夜はバイキングだったがここはそういうシステムはなかったので、メニュからステーキを選んだ。やはり、アメリカに来たからには、一度はステーキを食べたいのだ。Tボーンステーキのセットを注文した。22ドル。まっ、そんなものかという価格だ。僕は肉よりもとにかくビールが飲みたかった。朝からよく汗をかいたので、絶対にビールがおいしいだろうと思ったのだ。ウェイトレスにビールを注文すると、ビールは置いてなくて、ノンアルコールビールしかないという。悲しい、あまりに悲しすぎる。一体なぜなんだと思っても、ないといわれれば仕方がない。
すると、M.Mさんが、カウンターの近くにワインボトルがありましたよという。じゃ、ビールはあきらめて、ワインでいいやと思い、またウェイトレスに、ワインを注文するとワインはないと言う。じゃ、あのボトルはと聞くと、あれはぶどうジュースとのこと。要するに、ここにはアルコールを置かない何かの理由があるのだ。後で聞いた話だが、ここはインディアンの保護区。インディアンの経営するホテルだったのだ。
白人が持ち込んだお酒のせいで、インディアンの人たちが皆アルコール中毒患者になってしまい、そのせいでアルコールを禁止したようなのだ。Tボーンステーキは大味だった。僕はステーキの焼き具合はミディアムレアに決め手いるけど、ここのはミディアムのほうが正解だったように思う。量が多かったので、2/3程度食べる。食後は風呂に入り、11時に寝る。
【モアブへ】
翌日、僕たちは早起きして、モアブに向かった。
モアブへの道は途中までとても空いていた。途中工事中に出会う。アメリカに来て初めて工事中に出会ったので、工事中の看板を見落としてしまい、車が数十台止まっている理由が最初はわからなかった。途中何度も工事中に出会った。
モアブには11時半に到着。
去年見た懐かしい風景が次々と現れ、僕の中の記憶となってしまったピントが危うい風景と重なる。ここ、モアブは去年出会った学校の校長先生、ホップさんが住んでいる町。
モアブに着いたら、電話連絡することになっている。会う前に昼食を済ませておこうと思ったが、レストランに行く時間がなかったので、去年買い物をしたスーパーマーケットにいってパンとサラダと水を買う。ついでにモアブの市内地図が欲しかったので、店員さんに地図があるか尋ねると、地図は確かにあるが、それらはすべてここアーチーズ国立公園に関するものばかりで、モアブ市内の地図は置いてなかった。
でも良く考えてみたら、こんなに小さな町で市内地図を置いても、誰も買わないだろうなぁというのは容易に推測できた。でも、もしホップさんに電話して、私の家に来てくださいといわれたら、簡単に見つからないだろうということも予想できた。
モアブはこの地域ではかなり大きなほうの町だ。
レストランは何軒もあるし、マーケットも大きい。ラスベガスを出てから、いろいろな町を通り過ぎたけど、その中では一番大きな町だ。
マーケットで買い物をしていると初老の店員さんが、僕の方をじっと見ている。僕は知らない人だったので、僕の後ろに誰か知り合いがいるのかと思い、後ろを見たが誰もいない。ということはやはり僕だったのだ。
彼は軽い笑みを浮かべながら近寄ってきて「日本人ですか」と英語で尋ねた。
僕がイエスというと、さらに笑顔になって「こんにちは」と日本語で言った。
「私は日本に行ったことがあります。宮城県です。」といい、さらに知っている日本語を少し話すと満足そうに笑った。
僕がモアブの市内地図を探しているというと、マーケットの入り口付近に無料の観光パンフレットがあり、その中にあるというので、探してみると、詳しくはないが、通りと番地がなんとかわかる地図あった。
食事をしてから、電話を探すとマーケットの入り口に2台あるのを見つけた。
今回は海外でも使用できるケイタイをもっていったが、これは日本と海外での通話が可能になるが、アメリカ国内で掛けるにはややこしいとのことだったので、公衆電話を使うことになった。公衆電話は3人の少年たちが、ずっと電話を掛け続け、仲間に何か連絡をしているようだった。多くの仲間に電話をしていたのだろう。ちょっといらいらしていると、少年の一人の電話が終了した。
ホップさんから教えてもらった電話番号はとても長かったので、最初の番号、1が必要かどうか分からなかったので、その少年に向かって「ここから、この電話を番号に掛けるけど、全部必要なの?」と聞くと全部必要だという。僕は少年にお礼を言って、ホップさんに電話した。英語で電話に出るのはまだ僕の英語力では不安だ。でもこうして自分を追い込んでいかないと、英語力はアップしない。何事も体験、経験が大事なのだと改めて思いながら、電話番号を押す。ホップさんの言うとおり秘書が電話に出たので「宮城谷と言います。日本から来ました。ホップさんと話しが出来ますか」というと、「「チョット待って」と彼女が言い、すぐにホップさんが電話口に出た。
「ハーイ、ミヤです。今、モアブに着きました。僕はどうしたらいいですか?」
「今、どこにいますか?」
「City Market(シティ・マーケット)です」
「今、仕事をやっていて、もうすぐ終わるので、私の家の前で待っててくれる?私の家を覚えてる?」と聞くので、「多分、大丈夫」というと「じゃ、後で」と電話は切れた。やれやれ、どうにか通じたようだ。
East 100 Northという通りにホップさんの家がある。
去年来たものの、ホップさんの家は殆ど覚えていない。市内に入り、通りを探す。何度か、市内をぐるぐる回っていると、どうにかEast 100 North通りが見つかった。後は番地を探すだけだ。走っているとなんとなく去年見た風景が蘇ってきたと同時にホップさんの家を見つけた。
早朝、太鼓集団「志多ら」の撮影で、スタッフみんなが集合した場所だ。
家の前にある木の下で、暑さを避けた場所だ。懐かしさと再びここにいられる幸せを感じでいた。しばらく待っているとホップさんがオートバイに乗って現れた。再会を喜び合い、同時に僕の仲間を紹介してから、家の中に入った。
彼女の家のイメージは白い家で、平屋だ。彼女は部屋割りについて聞いてきた。僕は寝寝られるだけで十分なので、その旨を伝えると「屋根裏部屋もあるけど、とても暑いから、この部屋を皆さんで使ってください。一人はベッドで、後の方はマットを引きますから」と1階の部屋を僕たちに与えてくれた。
キッチンでこれからのスケジュールを話していると、ホップさんの友人、タレンさんが現れた。「少し休憩したほうがいいでしょ。」とホップさんが僕たちを気遣ってくれるので、朝早かったこともあり、これからアーチーズ国立公園に行く予定なので、1時間ほど休むことにした。その間にホップさんはサンドイッチを作ってくれるという。
アーチーズ国立公園は去年、去年は志多らの撮影のロケハンをしたときに少しだけ行った場所だ。その時はあまり時間がなかったので、Visitor Centerと、すぐ近くの岩を見ただけ。
今回はその広大なアーチーズ国立公園の中でも、トップスター的な存在の「デリケートアーチはどうしても行きたいとホップさんには伝えてある。しかし、今日は天候があまり良い状態ではないし、数日前に大きな山火事があって、そのために空気がスモーキー
だという。でも、今回はとてもハードなスケジュールなのでどうしても今日は行きたいというと、それでは2時から出かけましょうということになった。
ホップさんに日本から持ってきたそばを渡す。お土産は何がいいかと、出国前に志多らのメンバーに尋ねるとアメリカから太鼓の修行に来ている志多らのメンバーであるメーガンが、彼女はそばが好きというので乾麺のそばを持ってきたのだ。麺つゆも購入したのだが、バッグが重量オーバー気味だったので、やむなく残してきた。
それにあれだけの町なら、日本食の材料を売っているのだろうと思ったが、日本人が殆ど住んでいない町なので、残念ながらそばつゆは売っていないとのことだった。
ソバのおみやげの他に去年撮影したグランドキャニオンとモアブの写真をプレゼントした。写真を見終わった後で、ホップさんが「今日はもう一人日本人の女性を呼んでいるの」と言った。前回来た時、モアブには殆ど日本人は住んでいないと聞いていたのでちょっと意外だった。その女性はとても若い女性で、由季さんと名乗った。
現在は学生で留学に来ているが、近々、やはりこの町に住んでいるブライアンという人と結婚するという。ホップさんは僕の英語力を心配して日本人の女性を親切に呼んでくれたのだ。でも僕はなるべく今回は人に頼らず英語力を強化しようと思っているので、積極的にホップさんと話しをした。 ホップさんの英語の発音はとても分かりやすく、ゆっくり話してくれるし、僕に分かりやすい単語を多く使ってくれるので、大体は聞き取ることができたのだった。心配していたそばつゆは由季さんが作ってくれることになった。
2時を少し回ったところで、ホップ、タレン、由季さんと僕ら3人、合計6人は2台の車に分乗し、アーチーズ国立公園に向かった。モアブの町から10分程度で、アーチーズ国立公園のゲートに到着。入り口で1台10ドル払う。僕はここで、Park Pass(Park Passは50ドル払えば、一年間アメリカの国立公園は全部フリーパスになる)を購入しようと思ったが、ホップさんが払ってくれたので、帰りに買うことにした。
50ドルはチョット高いが、これを持つことによって、次回も必ず来るゾーと言う感覚になるだろうと思ったし、何よりナショナルパークのフリーパスだ。持つこと自体、ロマンがあってかっこいいのだ。形から入るのは時には効果が倍増する。最初に昨年同様ビジターセンターに入る。ここではアーチーズの紹介ビデオが放映されていて、アーチーズの全体像が分かるようになっている。
アーチーズ国立公園はとても広大な土地で、10箇所ほどの見所があるが、全部を見るのは1日では無理なので、今回は3箇所程度見ることにして、再び車に乗り込んで移動を開始した。最初は去年見た場所、次にダブル・オー・アーチと呼ばれている場所、最後はデリケートアーチだ。アーチーズ国立公園はとてもひろくデリケートアーチまではかなりの距離がある。とぃっても、車で数十分の距離らしい。
ダブル・オー・アーチは車道から見ると大きさはさほど感じないが、近くまで行くとかなりの迫力―だ、売店でポストカードを購入したので、ポストカードと同じ場所へ言ってみた。僕のカメラで除いて見ると24ミリで撮影したことが分かった。
ポストカードとの決定的な違いは天候だ。僕たちが訪れたこの日は曇りだった。ポストカードは天候の良い日に写されているので、アーチの開いた部分から青空が見えていい感じた。hopさんたちは岩を登っているので、僕も後から続いた。
ちょうど岩に穴の開いているところまで登っていくと、アーチの穴からとても涼しい風が吹いてきた。穴は風の通り道なのだ。
ここでは16ミリの広角レンズでも全体は入らない。アーチを見上げるとちょうどアヒルの首の辺りに見える。ダブル・オー・アーチを離れ、いよいよデリケートアーチに向かう。
途中に奇妙な岩が見えたので、あわてて止まる。人の頭と胴体のような。頭はお辞儀をしているようも見える。今にも首から落ちそうだ。ここmoabの近郊の岩は一見して赤くて硬い感じを受けるが、実は砂岩と呼ばれる岩が多く、触るとぼろぼろとはがれてしまう。
だから長い間、風と水によって形は変化して奇妙な岩が出来るのだ。その岩のそばまで行くと、1台のカメラが、三脚の上に載っていた。カメラマンはいない。MMさんが5秒に1枚シャッターが切れるようにセットしてあるといった。首から岩がおちる瞬間を狙っているらしい。本当に近い将来落ちるだろうと思われる。その場所からHPOさんが「あの遠くの景色を見て。あの岩の左側にある小さなのがデリケートアーチよ」といった。
見ると数ミリ程度の形がかくにんできた。いよいよご対面だな。心は躍る。両サイドの岩を見ながらへいたんな道を進み、デリケートアーチの駐車場についた、HOPさんがサンドイッチを持っていきましょうと言ってくれたが、1時間もいわばを上っていくかなりきつい行程と効いていたので、HOPさんに申し訳なく思ったので、帰ってからいただきますと言ってしまった。
由季さんが「水は2リットルはもっていきましょうね」と勧めてくれた。僕はリュックタイプのバッグと16mm28-50mmと5dを入れて三脚も持っていった。もちろん水も。この暑さの中で1時間岩場を登るので荷物は最小限にしたかったけど、それでもかなりの重量になった。
歩き始めてすぐ左側に古い家があった。HOPさんは「100年前にここに始めてきた人が立てた家」といった。風化された屋根が緑色をしていてきれいだった。体力に余裕があったのも最初のうちだけ。途中からかなりしんどくなってきた。運動不足のせいか肺活量が小さくなって上り坂がきつい。おまけに気温がかなり高く、体力を消耗する。水をドンドン補給するので見る見るうちに水が少なくなっていく。
最初の休憩地点で どのくらい着たのかと聞くとまだ1/3程度という。体力のなさを悲しむ。帰ったら、トレーニングしよう。体力、英語力、資金。これらのものが充実しないとこれからのアメリカ行きは難しくなってくるだろう。これから何回となく来るだろうアメリカ。アメリカ広大な土地、おおらかな人々。そんなアメリカにどんどん引かれていくのだ。写真を撮るのが第一目的ではあるけれど、僕自身の人生の勉強の場としても大いに役立っているのだ。
半分ほどの厳しい岩場を過ぎると残りの行程はそれほどではなかった。2回目の休憩をした場所から少し行くと細い岩場にさしかかる。落ちたら命はないだろう。日本ならまずロープが張り巡らされているのは間違いない。アメリカはそこへ行く人の自己責任の上に成り立っている。大人なのだ。細い岩場の壁を伝い歩きして反対側に出ると、SMさんが「うあーっ、これはすごい」という。その声でデリケートアーチに手が届くところまで来ていることが わかった。1分後に僕もその場に立った。
あった。とうとうデリケートアーチに来たのだ。言葉にならない感動が僕の体を中を突き抜けていく。こんなにバランスの良い形をしたアーチは他にはない。神様の贈り物だ。
絵葉書で見るよりも本物のほうがとても魅力てきだ。しかし、残念ながら天候が崩れてきた。雲はますます増えていく。夕焼けは望めそうもなかったが、今日はここにこうして来られただけで満足だ。写真は次回でよい。2-3日滞在して天気の良い日に来ればよいのだ。
アーチの真ん中まで歩いてみた。アーチ自体の高さは20メートルほどだろうか。観光客がそこに行って写真を撮っている。日本人だった。聞くとミシガンに住んでいるという日本人のカップルが写真を撮っていたのだ。いつもなら自分から進んで記念写真など撮ることはないのだが、デリケートアーチを見て感動してとても善良な人間になっていたのだろう。声をかけ写真を撮ってあげたら、とても素晴らしい写真をありがとうといわれた。そりゃ、そうです。構図も露出もばっちりやりましたから。
元の岩場に戻って、岩の上に寝転んだ。風がとても気持ちよい。汗をびっしょりかいていたのが、スーッと引いていく。このままずっと寝転んでいたかったけど、HOPさんたちに遠慮して気持ちと、今回がエピローグじゃない、これはプロローグなのだと思い、未練もなく次回のために戻ることにした。HOPさんは「ここで満月の夜に過ごすのはとても素晴らしいことです」といった。既に2回ほど満月の判にここを訪れていた。満月(Full moon)は月明かりで歩くことができるらしい。「是非次回は満月に着ましょう」と誘ってくれた。
それと冬の景色が素晴らしいことも教えてくれた。デリケートアーチの後方の山々に雪が積もって景観が素晴らしいのだ。ただ、冬のデリケートアーチはマイナス10度になるという。それと季節によってはデリケートアーチの穴の真ん中からつきが登ることも分かった。
夕焼けは望めそうもないので下山することにした。途中で100人ほどの学生の団体とすれ違った。その中の赤いシャツを着た少年に見覚えがあった。シティセンターで電話番号に着いて訪ねた少年だった。少年に「ハーイ、僕を覚えてる?」と聞くと「彼は一瞬戸惑ったが、すぐに僕だと分かったらしく笑顔で挨拶してくれた。驚いたのは僕よりもHOPさん。
モアブに着いたばかりだというのに、知り合いがいると思って驚いたのだ。「あの少年を知っているの?」と聞くので、昼間あった少年だというと彼女は不思議なこともあるものねといった。下山途中でカメラのクルーとすれ違った。何かの取材だと思うが、とにかく業務用の思いカメラ(多分10キロ位)を担いで息苦しそうに上っている。さらにびっくりしたのは小さな子供を背中に背負って上っていくお父さん。帰りはくだりなので一度も休憩することもなくすいすいと降りられた。
デリケートアーチを後にしてモアブの街に戻る。途中雲がどんどん多くなっておまけに雷が鳴り響く。由希さんの彼氏がオートバイでモアブに向かう途中嵐にあったという電話が入る。運転中、左側の岩山にスポットライトが当たって、赤く光っていたので車を止めて撮影するが、カメラを構えた途端劇的な風景は消えていった。今日はとことん天気にはついていないらしい。モアブの町に着く頃、稲妻はすぐ近くで光り、おまけにアメまで振ってきた。去年行ったレストランに向かったが、生憎定休日だったので、同じく去年ビールを購入したレストランに行った。
アメリカのレストランは最初に料理をオーダーする。当たり前だと言えばあたりまえだが、日本の居酒屋スタイルはないのだ。でもこのごろニューヨークでは日本人が経営する居酒屋が出現し、ニューヨークっ子の話題になっているそうだが。僕はビールが無性に飲みたかった。昨日はインディアンの経営するホテルでビールが飲めなかったからなおさらだ。
モアブにはここで製造している地ビールがある。4種類ほどあるビールの中から一番濃い色のビールをピッチャーで注文する。僕とSMさん、HOPさんも一杯だけ付き合う。
アメリカの飲酒運転は厳しい取締りがあると聞いているので、HOPさんは大丈夫かと思って聞いてみると、「一杯だけは認められているのよ」というし由希さんもそういうので、僕は半信半疑だったけど、言いくるめられたようだ。
それから、チキンとビーフの料理を注文し、HOPさんにお世話になったので僕が会計した。楽しい会話が進み、HOPさんが家に行って飲みましょうというのでビールを買って家に向かう。11時ごろまで話していたが、FOPさんも眠そうだったし、ブライアンと由希さんも帰ったので、それからはSMさんが日本から持ってきたという焼酎を飲み1時頃まで話をした。
朝6時、シャワーをあびて、HOPさんに挨拶。昨日は遅くまですみませんでしたというと「私こそ疲れていたので早く寝てしまってごめんなさい」といってくれた。彼女の心遣いに感動する。それからおいしいコーヒーを入れてくれた。「この珈琲はキューバの友達からもらった珈琲でストロングだけど大丈夫」といいながら、大きなコップになみなみと継いでくれた。飲んでみるとちょうど良い濃さの珈琲だった。8時に出発の予定というと、HOP さんは自宅の大きな地図を破って、モアブからラスベガス息の道路を教えてくれた。
【ラスベガスへ】
何時間かかるかと聞くと6時間という。高速を使っての6時間だから500キロ以上あるのだろう。出発の時間が来た。荷物を積み込みHOPさんにお礼を言い、握手した。今度は冬に来ますからというちと、100人は無理だけど、少ない人数だったらいつでも泊まってと嬉しいことを行ってくれた。モアブのGSで満タンにする。もう何回もガソリンを入れたので、すっかり慣れてきた。
州道を30マイルほど走るとインターステート70に入った。制限速度は75マイル。日本で言えば120キロ。車は快調に進む。モアブからラスベガスへの道は大きな景色が連続して続いている。道を走るというよりは、大荒野を突き進んでいくという感じだ。気高い丘から何百キロ先まで見ることが゛出来る坂道を降りたときは鳥肌が立ったほど感動した。午前8時にモアブを出発して6時間半。途中ガス欠の危機に会いながらも僕たちは無事ラスベガスに戻ってきた。
ラスベガスは砂漠の中にぽつんとある大都会。まるで夢の世界のような町ではあるが、僕にとってはこの4日間のグランドサークルの旅こそがまさしく夢そのものだったように思う。またいつの日か、訪れることを心に誓って2007年の旅は終了した。































